ROY草子 児童文学とは
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児童文学とは
2007-08-06 Mon 21:44
以前の「クローズアップ現代 バッテリー」の続きとなります。
タイトルは仰々しいですが,内容は自分でもうまくまとめられない…(泣)。

以前の日記で書いた「クローズアップ現代 バッテリー」ですが,児童書を取り上げてくれたという点では,「よくぞ取り上げた!」と思うのですが,あの内容だと,児童書がなぜ大人に読まれるのかという視点で扱っていて,児童書に対する見方がいまひとつだなと思いました。しかも,20代から40代の女性限定というところにひっかかりを感じました。児童書と一般書のボーダーレス現象がおきていて,児童書として出版されていても大人にも読み応えがある作品がたくさんあるという内容なら少しは納得がいったのかもしれないのですが。
しかも,今回は大人の女性の声ばかり取り上げていて,本来の読み手である子どもの声はほとんど聞かれませんでした。一人だけ,高校生の女の子が「巧のように自分を通して生きていっていいんだ」と自信を持ったという話をしていて,これが一番,巧のことをよく読みとって自分のものにしているなあと思いました。
あさのさんご自身が登場しましたが,何を伝えたくて登場したのか…よくわかりませんでした。「これはわたしの物語。あなたのものではない。」ということを伝えたかったのでしょうか。この部分だけ受け取ると,読者は読むことを拒絶されたように感じてしまいます。読者なりにそれぞれが作品から何かを感じ取り,自分の中に取り込んでいくのは当たり前で,それが作者の意図するところではないということも当然起こり得ると思います。作者にしてみれば不本意かもしれませんが…。
作家の側からすると,自分の作品は「読者のものではない」という発想になるのでしょうか…。それこそ人それぞれなのかもしれないのですが。

「わたしのために」ということは「自分のために」あさのさんは書いているということ。「自分のために」児童書を書く作家が増えているというのは確かに感じます。子どもに何を伝えたいのか,メッセージ色の弱い作品が多くなったなと思います。
また,児童書の書き手が一般書の分野にも登場するようになっているのは,「自分のために書く」というスタンスでいるからなのかな…と思いました。そうだとすると,児童書の書き手が一般書も書く現象は,個人的にはあまり好ましく思いません。ただ,読み手は児童書や一般書の枠にとらわれずに,読みたいものは読み,よいものはよいと思うのです。児童書を子どもの読み物だからと軽く扱う気はありません。読み応えのある児童書はたくさんありますから。むしろ,一般書の方が繰り返し読もうとは思わないかもしれない。

エンタメを否定する気はないし,楽しんで読めるという点で読書への第一歩を踏み出すことができるし,単純に「楽しい」と思えるからそれはそれで価値があると思います。
でも,児童書にはやはり子どもたちに伝えるという役目があるのではないでしょうか。
そうでなければ,何のために児童書を書くのか…。

エンタメ系の作家には,はやみねかおるさんのように,子どもがどんな話を好んで読むのかわかっていて書いている人もいます。彼は自分のために書いているわけではないと思います。メッセージ色は強くないですけれど。

那須正幹さんの作品は,ズッコケのようなエンタメもありますが,それ以外の作品が非常に強いメッセージを持っていて,心を揺さぶられます。特に戦争を扱った作品は,次世代に問いかける形をとっていて,30年も前に書かれたのにそれが古くならず,今も訴えかける力を持っています。今,児童文学に必要なのは,このような時代をこえて読み継がれていく作品なのではないか…。
外国の翻訳児童文学は,かなり長い間読み継がれています。メディア化の助けもありましたが。でも,ケストナーやリンドグレーンなど,もっと読まれてもよいと思う作品が,だんだんと子どもたちに読まれなくなってきている。これも残念なことです。
また,日本の児童文学で,何年も読み継がれている作品といって挙げられるのは何だろう…。灰谷健次郎,安房直子など,教科書に取り上げられた作品のある作家の本はよく読まれるかもしれません。自分の児童文学を読んできたあとを振り返ると,今江祥智や赤木由子,灰谷健次郎の作品はよく読んでいたけれど,今の子どもたちは今江さんや赤木さんの作品はほとんど読んでいないように思います。
保護者と話していて,「子どもに本を読むようにすすめたくても,どんな本がよいのかわからない」という声もよく聞きます。親の世代が,本を読まずにきてしまい,子どもにすすめられないのです。
わたしは,岡田淳さんと杉みき子さんの作品が,本当に子どもの頃から大好きで,大人になってからも忘れられずにいました。杉さんの『白いとんねる』は子どもの頃にその存在に気づかず,なんてもったいないことをしたのだろうと後悔したものです。だから,子どもたちには必ずこのおふたりの作品は紹介します。こうやって,子どもたちに本を紹介していくことがわたしにできることだから。
ある児童文学作家のサイトには,大人になってから「子どもの頃に読みました」とやってくる人が現れるようになりました。それだけ,メッセージ色の強い,心に残る作品を子どもたちに届けているのだと思います。それに対し,あさのさんの作品を読んだ子どもたちが,大人になって「子どもの頃に読みました。」とメッセージを送ってくるだろうか…。それはないような気がします。

ある児童文学作家がおっしゃっていました。
「わたしは『子どもに求められる正しい童話作家像』(これは,早大童話会系の作家さんたちが作り上げたものと近かったり,翻訳児童文学で読んだ,外国の作家さんたちの像と重なっていたりすると思います。子どもたちを愛し,導こうとするよきおとなの姿ですね)を,『演じようと』しているかもしれません。『よきおとな』でありたいと思っています。日本や世界に対して,責任感や問題意識を持とうと思っている。次の世代に,いろんな思いを継承して行かなくては,と思っている。
でも,そういう意識を持って作家をしていこうとすると,どうしたって,教えるもの教えられるもの,守るもの,守られるもの,の違いはでてくると思います。 けっして,『対等』にはなれません。」

これは教員の世界でも同じようなことが言えるように思いました。
わたしが子どもたちによく言うのは「わたしはあなたたちのお友達ではありません」という言葉です。友だち感覚で接してくる子どもがいますが,そこはきっぱりと線を引きます。だからといって,仲良しになれないのではない。子どもに共感できる部分はたくさんあるし,子どもの目線で話をすることもある。けれども,根底には子どもたちの成長を願い,成長した姿を見る歓びを感じたいという思いがあります。友だち感覚で接してしまったら,子どもと対等になってしまいます。それでは,教師ではないと思うのです。
同じように,児童文学作家も子どもの成長を願い,本を書くのだというのが基本であり,自分のために書いてしまったら,それは児童文学作家ではないと思います。
大人が自分のために書いた物語だから,大人が共感してしまう。それが『バッテリー』なのではないか…そんな気がしました。
極端に言えば,『バッテリー』は出版の形態は児童書であっても,中身は児童書ではない。だとすると,クローズアップ現代でとりあげられたのは,児童書ではない…のかもしれません。


ちょっと補足を。
児童書と一般書の両方を書く作家についてですが,違いを明確にしてかき分けているのならばよいと思います。
「自分の書きたいもの」ならば一般書で書けばよいのであり,基本的に読者を子どもであると意識して書く児童文学の場合,読み手に何を伝えたいのかということが大切になってくると思います。
あさのさんのように,「自分のために書く」のであり,それは「自分の物語で,あなた(読者)のものではない」と思うのであれば,他者に公開する必要はないというのがわたしの考えです。あの番組での言葉を読者として聞くと,そのようにしか思えません。
また,「自分のために書く」ものと「自分の書きたいもの」とは違うとわたしは判断しています。「自分の書きたいもの」は読み手を意識して書いていると思うからです。「自分のために書く」のは,あくまで自己満足であり,読者はいらないのではないでしょうか。


さらに補足を。

児童書においてメッセージ色のあまり強くないものであっても,「子どもに楽しんで読んでもらいたい」という思いがあれば,それは価値のあることだと思います。読み手である子どもへの思いがありますから。はやみねさんの作品は,エンタメ系ですが,そういう読み手への思いが詰まっていると思うのです。


さらにさらに補足を。

一般書と同様,児童書への書評というものが存在します。児童書の場合,日本児童文学者協会の発行している『日本児童文学』が一番目にしやすいかもしれません。
それ以外にも,ネット上での書評は,あちこちで目にします。
ただ,その書き手は誰かというと…たいてい大人なのです。
(わたしは書評というほどのものは書いておらず,あくまでも「紹介」というレベルです。自分が読んで魅力がないと思ったら紹介しません。という意味では,けっこうシビアかも…。)
大人の書いた書評と,子どもが読んで思ったことにはかなりの隔たりがあります。
でも,児童書は本来子どものためのものです。たとえ大人から認められなくても,子どもが夢中になって読んでくれたら,作者としては大成功なのではないでしょうか。
これは,荻原規子さんのエッセイ「読む女の子たち」にも同様のことが書かれていました。
ただ,このエッセイで荻原さんが想定した読者が「自分と同じシグナルを受け取ることのできる女の子」と限定したところに異議は大ありなのですが。それについてはこちらに書いてある文章を参照してください。
ただ,荻原さんの場合は,基本的に大人から認められてはいるのです。評価は極端に分かれるのですが。
別窓 | 児童書 | コメント:5
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この記事のコメント
やっぱり長くて(>人<)
とても興味深く読みました。そして一度投稿しようと書き込んだのですが、長くなったのでやめました。
私が昔読んで覚えている、読み継がれていて嬉しいと思ったのは松谷みよ子さんが筆頭でしょうか。
あまんきみこさんや神沢利子さんも感じたかな。

ちょっと話はズレるのですが、読み聞かせをする立場にある人には、そうして描かれた書き手の思いを汲み取る力を持っていて欲しいなと最近思いました。
私も読み取れている自信はありませんが、絵本は幼児までだとか、なんというのでしょうか、書き手とはずいぶん離れた垣根で本を区切ってしまっているのは悲しい。
読み聞かせ中に紙芝居をひっくり返して自分で絵を見ながらバンバン自分の感想を言い、読後は教育的指導が入り……そういった読み聞かせを最近目の当たりにし、ショックを受けました。
書き手の思いは、読んだ人が個々に好きに受け取ればよいのですが、他人に強制することではないと思うのです。ましてや、そんな思いとはぜ~んぜん別の次元の感想でしたしね。
仮にも読み聞かせる立場にある人が、そんなことをしているということがショックでした。

あ、愚痴っちゃったわ(^▽^;)
一日とって自分のところで長々と書こうと思っているのですがなかなか書けなくて(苦笑)
絵本や児童書って、メッセージ性の高いものが多いですよね。

ところで”教育”というものをどう捉えればよいのか、今夏は考えさせられます(学童のアルバイトに行っているもので)
教師が友達ではないことは当然だと思うのですが、成長した姿とはどういった成長なのか、先生によって違うと思います。
たとえばROYさんはどういうことが成長だと思われますか。
2007-08-07 Tue 20:15 | URL | 鞠香 #4PWoEP6s[ 内容変更]
長文歓迎
非常にわかりにくい長文におつきあいいただき,ありがとうございます。

まだまだ読み継がれてほしい本はでてきそうですね。
さて,絵本についてですが,わたしは夏休み前になると必ず戦争関係の本を紹介することにしており,まずは絵本の読み聞かせからはじめます。今回は,うみのしほ『おりづるの旅』です。その後,那須正幹『ねんどの神さま』を紹介しました。4年生だったので,いろいろな反応がありましたよ。こちらの価値観を押しつけず,「自分なりにこの話を読んでどう思ったのか,考えてね」でおしまいにしました。でも,子どもたちはすぐさま自分の意見を言い出しました。
『ねんどの神さま』には「なんか納得できないよな。これでいいわけないじゃん!」という内容の反応が多く,『おりづるの旅』は,「原爆ドームもさだこの像も本当にあるんだ。見に行ってみたいな。」「原爆って恐い。」「原爆ドームのそばにいた人はとけてしまったって聞いたことがあるよ。」などなど,それぞれの知っていること,知ったことを話し出しました。
絵本は決して幼児だけのものではないですよね。基本は子どものため。でも,大人も一緒に読んで考えていけるものもたくさんあります。
読み聞かせの最中に自分の価値観を押しつけるのは,もはや読み聞かせではありません。読み手が自由に場面を思い描き,お話の世界を楽しめなければ意味がないと思います。

「教育」というのは非常に幅の広い言葉です。家庭での教育,地域での教育,学校での教育,大人になってからの教育…一生教育かもしれません。生涯教育という言葉もありますから。
狭義での教育といってもこれまた多様。たとえば,食事のマナー,あいさつ,公共の場での過ごし方などは本来家庭での躾の範疇かと思います。でも,実際には学校で日々指導しています。「給食を残さないように指導して下さい」と保護者に言われても,好き嫌いをしないということは家庭での教育なのでは…と思ってしまいます。無理矢理食べさせるのは体罰に繋がるという考え方もあるのです。「無駄遣いをしないように」という指導も本来家庭での教育でしょう。学校では基本的にお金を使う場面はないのですから。でも,「親の言う事なんて聞かないので,先生から話して下さい」と言ってくるのです。話すのはいいけど,それで子どもが言うことを聞くかどうかは別問題です…。

「成長」というのも,その子どもによって全く違ってきます。図工の時間に作るものを考えられず,いつもアドバイスをしてもらっていた子が,自分で考えて作るようになったのも成長でしょう。
自分が悪くても絶対に「ごめんなさい」を言わなかった子が,「ごめんなさい」を言えるようになったのも成長。
逆上がりを必死になって練習してできるようになったのも成長。
自分のことしか考えられなかった子が,友だちの気持ちも考えて行動できるようになったのも成長。
いらいらを我慢できずに爆発させていた子が,我慢する時間を長くできたことも成長。
クラスに40人近くいて,それぞれの個性があるわけですから,成長の度合いも違います。発達障害のあるお子さんだったら,周りから見るとほんのちょっとの成長でもこの子にとっては大きな価値ある成長です。大いにほめます。
これを成長と見るかどうかは,確かに教師によって違うのでしょうね。わたしは,他者と比較するのではなく,個人の中でどれだけ成長しているのかを見てあげたいと思っています。
2007-08-08 Wed 09:41 | URL | ROY #Uskr0pWs[ 内容変更]
よかった、なんだかホッとしました。
一人一人の成長を見てくれている先生もいるんですよね。当たり前ですが、そうですよね。
私が疑問に思ってしまったのは「学校教育」だったのですが、学童と学校が違うのは承知で、集団行動第一でとにかく一塊にまとまっておれと言うバイト先の先生が、(個性を理解した)個々への対応や成長への思いを持っておられるのか、そういう思考自体が保育現場だけのことなのかと、いろいろ考えてしまいました。
保護者や関係者も一目置いている先生なので、そんな薄っぺらいことはないとも思いますし、どうなのかなーと思いつつ先生達の意図がわからないことも。
そんなで出てきた問いかけでした。

ところで……お金の使い方って。
食事に関しては、もちろん家庭での躾だとは思いますが、そういう風に言う親の気持ちは実はわからないでもなかったりします。
先生にというのもあるし、日々みんながやっていると身に付くのではと思っちゃいます。うちは給食で行儀が悪くなったので、幼稚園でもう少し指導してくれないかなぁとか内心思っています。
でもお金って……。たしかに学校で使うわけではないし、ちょっとビックリです。

そして絵本。
やっぱりそうですよね。小学生が読むに耐えるものがたくさんあることはもちろん、感想は子供たちが持つものですよね。
お話を楽しませてあげたかった。お話が楽しいということを知って欲しかったなぁ。
独りよがりの読み聞かせ論で自信がなかったのですが、ROYさんに同意見です。

戦争の絵本も、薦めるとなるとなかなかに難しいジャンルですよね。
サダコの折鶴の話は、同じ小学校4~5年生ごろに本で読みましたが、絵本でもあるのですね。覚えていますよ。

あら。なゆが起きてしまったので、ここまでで(-人-)
2007-08-09 Thu 17:34 | URL | 鞠香 #4PWoEP6s[ 内容変更]
取り急ぎ追加。
私もエンタメ系が一概に悪いとは思いません。まずはお話を楽しむのが本だと思うから。
売り売り主義のものはどうかと思いますが。
2007-08-09 Thu 17:48 | URL | 鞠香 #4PWoEP6s[ 内容変更]
集団行動
学童でも学校でも,集団で行動しなければならない場面は必ずあります。どこかへ移動するときに自分勝手に動かれてしまっては困ります(汗)。全体に説明しているときに,自分の思いついたことをポンポン言われるのも困ります(滝汗)。集団でいるか,そうでないかは,それぞれの場面に応じてだと思いますよ。

最近の児童書はエンタメ系が多くなっていますが,背景には出版業界の事情もあるようです。一般書と比べ,対象読者が絞られている児童書はどうしても売り上げが伸びません。そうすると,出版社はどうしても商業路線に走らざるを得ません。シリーズものでも,有名作家の作品であっても,打ち切りになってしまうとのことです。
現実は厳しい…。
2007-08-09 Thu 19:36 | URL | ROY #Uskr0pWs[ 内容変更]
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